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2009年8月2日

「隣人となる」     申命記6:4-7、ルカ福音書10:25-37

 今朝の説教題は「隣人となる」ですが、先日、本屋さんでNHKラジオ放送テキスト「イエスのたとえ話を読む」の中に「隣人になる」という題で話が載っていたのを見つけました。「カトリック生活」(月刊誌7月号)でも「隣人になる」という特集を組んでいるのを知り、早速どちらも取り寄せて読みました。この譬え話は中高生には、よく知られ愛され親しまれているものだということです。夏のキャンプの寸劇ではよく取り上げられ、多くの若者たちがここから「人に親切にすること」が大切だと受け止めるのだそうです。
 今朝の聖書箇所で律法学者が最初、イエス様に尋ねたのは「わたしの隣人とは、誰ですか」でした。彼の関心は「誰が隣人なのか」であり、隣人という枠に入る人は誰なのかと問うているのです。ですが、イエス様はこの問いに応じて答えておられません。イエス様は枠を決めて隣人愛を考えることができなかったからです。
 ここでの、律法学者の問題は、二つあります。一つは、彼らが聖書をどう読んでいたか、と言うこと。イエス様は彼に問われました。「あなたは、それをどう読んでいるのか」と。聖書をどう読むか、自分の側から読んでいくのか。それとも、神が語られている言葉として聞いて読んでいくのか。これには大きな違いがあります。彼の中には律法学者として伝統的な律法の教え(枠内の知識)があり、その教えが先にありました。ですからかえって神が語られる言葉を聞くことができなかったのです。もう一つは、隣人の理解の問題です。これも既存の理解が彼にありました。隣人の枠を決め、その枠をもって隣人を考える理解です。しかし、イエス様は、そうではありませんでした。隣人とは、ある決められた枠内にいる人ではなく、苦しみ、悲しんでいる人と出会う時、その人は自分にとって見知らぬ人であっても、あなたの生き方として、あなたがその人の隣人となるのかどうかが問われることだったのです。だからイエス様は「誰が、その人の隣人になったか」と問われたのです。そして、律法学者が「その人を助けた人です」と答えた時に、「あなたも同じようにしなさい」と教えられました。それは、あなたも「隣人となりなさい」なのです。
 ですからこの箇所は、単に「人に親切にしなさい」と教えているのではありません。親切ではなく、愛の問題なのです。隣人を愛するということであり、それはその人の隣人となる、その人に近づき、その人のために仕えることなのです。
 このことを教えられたイエス様は、教えただけではありませんでした。私たちのために自らの命をも捧げて神の愛を表して下さり、私たちの「隣人となって下さった」のです。
by higacoch | 2009-08-08 13:42 | ルカ
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