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2009年6月28日

「失われた息子を待つ父」   エレミヤ書31:20、ルカ福音書15:11~32

 今朝の聖書箇所は有名な「放蕩息子」の譬えとして知られていますが、もしここに登場する父親のことを考えない物語として語ったなら、イエス様がここで語りたかったことを語り得ない事になります。
 父親は、財産分与の権利を主張した弟の申し出を受け入れ、生前に財産分与しました。弟は財産を得るとすぐに家を出ていきます。父親は息子がどこでどう暮らしたのか解りません。ただ父親はその弟が何時帰ってくるのか、首を長くして待つのです。弟は貧乏のどん底の生活をして、我に返って悔い改め、父を思い起こします。これは単なる実家に帰ろうとか、家に帰ったら食いぱっぐれがないということで帰るのではありません。
 もしも父親が息子を受け入れず、拒否したならどうなるのでしょうか。弟は自分がしてしまった放蕩と自分の愚かさを嘆き、自己卑下して自分を裁き、苦しんだのではないでしょうか。父親が弟に対し、「お前は自分勝手に出ていったのだから、お前の勝手にしろ」と突っぱねたら、関係は回復できません。ですが、父親はそうではなく、弟を心から受け入れ、彼を抱きしめて迎えたのです。父親の喜ぶ様は異常な程です。父親は神様です。神様の方が近寄り、受け入れて、愛して下さったのです。神様はいつでも待っていて下さっているということなのです。そして悔い改める者を心から受け入れ愛して下さいます。この愛は私たちの救い主、イエス様の十字架の出来事によってこの世界に明らかにされました。神様がまず私たちの罪を赦し愛して下さったのです。
 ヨハネの手紙には「神は、その独り子(これはイエス様のことです)を世にお遣わしになりました。その方によって、私たちが、生きるようになるためです。ここに神の愛が私たちの内に示されました」と。ここに愛があります。ここにこそ神様の赦しの愛が深く現されたのであり、これ以外にはないのです。イエス様が十字架にかかって死なれたのは、罪の赦し以外のためではありません。まさに、罪を赦す愛、愛の極みが現されました。だから、言えるのです。あなたも愛されていると。
 人生のいろいろな出来事で、悲しみや苦しみや、自己嫌悪もあるかも知れません。しかし、自分で自分を受け入れられないような時にも、神様はあなたを受け入れて下さったということを深く思い起こし、神様を見上げて、起き上がり、立ち上がって頂きたい。イエス様は、この「放蕩息子の譬え」を話すことによって、どんなに大きな愛をもって、神様が私たち一人一人を迎えて、愛して下さるのかを教えておられるのです。ぜひ、イエス様の愛を受け止めて、イエス様によって新しくなり、生きていって欲しいのです。
by higacoch | 2009-06-30 18:08 | ルカ
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