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2009年5月24日

「 うちがわへ 」 申命記 30:11-14、マルコ福音書 3:20-35
                          荒瀬牧彦牧師(めぐみ教会牧師)

        
  この聖書(よいほん)のことばを
 うちがわからみいりたいものだ
 ひとつひとつのことばを
 わたしのからだの手や足や
 鼻や耳や そして眼のようにかんじたいものだ
 ことばのうちがわへはいりこみたい       (八木重吉)

 福音書で、主イエスのガリラヤ宣教の記事を読んでいくと、主イエスがガリラヤの苦しむ人々の現実の中にずんずんと突き進んでいったという印象を受けます。ご立派な宗教家や指導者たちは、「悪霊につかれた人」などには関わろうとしなかったのですが、主イエスは深く関わっていくのです。そして、それゆえに「あいつは悪霊の頭ベルゼブルの力であんなことをしている」というひどい中傷を浴びることになるのですが、それでもイエスは逃げようとしませんでした。そして、主イエスに従う弟子たちも、人々の現実の中へと入り、「食事をする暇もないほど」になっていました。大変なことです。でも、それこそが「うちがわからみいる」経験だったのです。
 反対に、「身内の者」や「エルサレムから下ってきた律法学者」は、ただ外側から眺めて、的外れの批判をするだけでした。それは要するに、自分の保身をはかっているだけのことだったのです。主イエスの母や兄弟たちも同じです。彼らの問題点を端的に現わしているのが、「外に立ち」という言葉です。主イエスが神の言葉を語っている「家の中」に入って、他の人々と一緒にみことばを聴こうとはしなかったのです。
「わたしの母、兄弟とはだれか」とは冷たい言葉のようです。でも、それは拒否ではなく、神の家族となることへの招きだったのではないでしょうか。<さあ中に入って神の言葉を聞いてください。神の国がここに来ているのです。>
 イエス様はいつも「当事者」として渦中に立っておられます。そして、出会う人たちにも、神の出来事の「当事者」となることを求められるのです。中へと踏み込まないと、聖書の真意はわからないのです。神の御業はわからないのです。ああ本当に、「ことばのうちがわへはいりこみたい」。
by higacoch | 2009-05-30 15:41 | マルコ
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