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2008年12月28日 

「神様を信頼する」   ヨエル書3:1-5, ローマ 10:1-13

 今年も早1年が終わろうとしています。今年は特に早く感じました。それは今年、私たちのカンバーランド長老教会の全体会議である総会を日本で開催したからです。その準備に前半期は追われ、6月に開催、その後は整理と夏、秋の教会行事に追われていった感が致します。こんな一年ではありましたが、神様から素晴らしい恵みをたくさん頂いた年でもあります。
 さて、私たちの教会として、この年は教会標語を「イエス様の福音を伝えよう」を掲げ、イエス様の福音をできるだけ伝えようと活動してきました。そのために新しく始めた活動や諸集会もあります。しかし、新しい人をお招きする難しさも感じました。しかし難しくても、それを為し続けて行きたいと願っています。それはパウロが言うように、新来者の方々が救われることを心から願うからであります。単なる信者獲得や教会の教勢の拡大のためではありません。そうではなく、一人でもイエス・キリストを信じ、その人が救われて生きていって欲しいからです。
 求道者の熱心さには、間違ったものがあります。パウロが指摘しているように、熱心に、自分の義を求めているのであって、それがどんなに熱心でも救いに至ることはありません。自分の義というのは、律法を守り抜くというような行いによる義であって、行動によって得ようとするものです。それに対して、神の義は、キリストによってなされた1回限りの救いの御業を受け入れ、イエス・キリストを信じることです。この二つをルターは、自分の業による信仰、そして神の業による信仰と区分けしました。救いはあくまでキリストの救いの業によってなされ、それを信じて生きることをパウロは教え示しているのです。
 キリストは今も生きておられるのですから、大事なことは、あなたがキリストの義を信仰によって受け入れるかどうか、ということです。キリストの義があなたを救うのであり、あなたは信仰によって救われるのです。救いは人がどんなに良い行い、善行を積んだとしても、律法を守り通していったとしても、その延長線上にはありません。どんなに素晴らしい行いを為したとしても、キリストを見上げていなければ、キリストによる救いはないのです。キリストが私たちを愛して、私たちを救い、その救いによって、キリストを見上げ、キリストを信じて生きるようにして下さったからです。ここにこそ、信仰による義があり、それが神様を信頼して生きることなのです。主なる神様を信頼して歩む者は、誰も失望することがありません。そこには確かな希望があるのですから、新しい年も主を信頼して歩んでいきましょう。
by higacoch | 2008-12-31 18:51 | ローマ
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